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北周と隋の将軍であった、李淵が618年長安を占領し唐を建国し、高祖となった。
その後次男の李世民が玄武門の変で兄弟を殺し、太宗になり、のちの時代の模範と成る貞観の治をおこなう。(因に西遊記の皇帝でもある)治世は23年間続いた。 三代皇帝高宗・李治は生まれつき身体か弱く、気が優しかった。百済、高句麗を滅ぼし、異民族を討伐して領土最大となる。その后は武照で、のちの武則天(即天武后)である。晩年、高宗は政務の執る事のできない健康状態が続いたので、実際に政を行ったのは彼女っだった(垂廉の治)。

繁栄

高宗が崩御すると、皇太子の李顕が中宗になったが、54日で廃止されてしまう。理由はのぼせ上がって一族の繁栄を考えている、偉皇后に武則天が腹をたて、それ以上に妻のそのような思い上がりを抑えることのできない中宗に愛想が尽きた。
廃しされたあと、高宗の第8子李旦が帝位につくが、兄が廃止されたのをみているのでおとなしくして、権限はなかった。在位は6年間。
武則天は690年、睿宗を廃して即位する。国号を周にあらため、(武周革命)中国史上唯一の女帝となった。
治世は15年間続いたが、82才で再び中宗に位を譲り、武則天は没した。
しかし中宗は偉后と娘・安楽公主によって暗殺され暗殺された。睿宗が再び帝位につく。
偉皇后は偉氏による新王朝を作るつもりであったが、睿宗の三男、李隆基のクーデターによって偉氏は滅んだ。その後、李隆基は27才で皇帝になり(因に叔母も皇帝候補だった)玄宗となり睿宗は上皇となった。
李隆基は開元の治を行い、府兵制から募兵制にしたり(軍制改革)官制の改革、ぜいたくの禁止を行った。しかし、楊貴妃に惑わされて意欲を失う。
755年、安史の乱がおこり、安禄山(節度史)が長安を占領し、玄宗は都を脱し、蜀へ。
避難する途中で、皇太子の李亨に位を譲り、粛宗となる。彼は異民族の力を借りて長安を奪回する。
そして代宗の時に安史の乱はおさまるが、以後唐は衰える。
徳宗の時は節度史の力をおさえようとして失敗する
780年、両税法を実施する。
11代憲宗は、節度史の力を抑え、物価を安定させたが、しかし丹薬の作用で、おこりっぽくなり、恨みを買って宦官に毒殺された。
15代武宗は、穆宗の五男で、仏教を弾圧したり、四千寺を滅ぼしたが33才で中毒死した。
16代皇帝は宣宗は憲宗の13男で『小太宗』と呼ばれ仏教の弾圧をやめ唐の立て直しにつとめた。
18代・僖宗はぼんくらで政治にまったく興味がなく、宦官にすべてを任せたため、宦官と節度史がむすびついてさらに国が乱れる。
この時。黄巣の乱がおこり、僖宗は四川へのがれ黄巣の乱は異民族の力で鎮圧する。
以後唐は混乱状態に陥り僖宗の死後昭宗が宦官によって皇帝になるが皇帝になるが実権は節度史の朱全忠が握る。
朱全忠は、哀帝を譲位させて自ら皇帝となのらせ後梁の太祖となり開封に都をおく。これによって907年唐は滅亡する。
以後再び分裂し五代十国となる。