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ローマの建国はラテン人が紀元前8世紀頃、イタリアに都市国家で王政だった紀元前6世紀頃王を追放して共共和政となる。
紀元前46年、第2回三頭政治を行って、オクタヴィアヌスとアントニウスが対立して、クレオパトラと結びついたアントニウス波はオクタヴィアヌスに敗れ、オクタヴィアヌスは元老院からアウグストゥスの称号を与えられ初代皇帝となる。
そしてローマは、共和政から帝政になった。
アウグストゥスは独裁をすることなく元老院と共和をとった。
「粘土のローマを受け取り、大理石のローマを残すこと」とアウグストゥスは宣言した。
アウグストゥスとは、『尊大な者』の意味。帝政開始後ローマはニ百年間繁栄する。
ニ代皇帝は、ティベリウス。彼は陰険な性格で疑い深く、三代皇帝カリグラは、ティベリウスより残酷で、古典的な暴君だったため、暗殺された。

混乱
四代皇帝は親衛隊の推薦によってクラウディウスが皇帝になる。しかし彼は無能に近くおとなしかった。そのため妻は、息子のネロに夢中になりクラウディウスは妻に毒殺されてしまう。
そしてネロが五代皇帝になった。はじめは元老院と協力して善政を行っていたが、次第に残酷になっていった。大火事になったとき、キリスト教を犯人として多数処刑した。
その2年後、反乱が起きて、自殺した。ネロの代でアウグストゥスの血筋はたえる
そして反乱が続いて次々と皇帝が失脚しいくなか、ヴェスパシヤヌスが、ヴィテリウス軍を敗って9代皇帝の座につく。
財政再建、コロッセイム等を建設し、領土も増えた。そしてヴェスパシヤヌスが死んだあと、息子があとを継いだ。十代皇帝に即いたティトゥスは有能だったが2年で死んでしまう。(コンペウス火山噴火等おこった)
ティトゥスは若くしに子供がいなかったため、弟のドミティアヌスが、皇帝に即いたが、キリスト教を弾圧したり、皇帝は神だと主張した。
無実の処刑等の恐怖政治を行うが、家来の裏切りによりころされた。


前編

*** 五賢帝時代

五賢帝とよばれる五人の皇帝の出現によりローマ帝国は繁栄をむかえる。
12代皇帝ネルヴァはとうに60才は過ぎていた。
温厚誠実で、家は法律家だった。キリスト教の弾圧を止め、善政をおこなった。そして後継者に選んだのは養子のトラヤヌス、彼もキリスト教の弾圧をしなかった。彼は軍事に優れローマ帝国の領土を最大にした。しかし東遠征後病没する。トラヤヌスの後継者はハドリヤヌス。
国内を巡回し、法律・行政・治安などにつとめた。国が安定しており、軍事より内政に着し、財政再建をめざした。
アントニウス・ピウスはハドリヤヌスの養子になり皇帝になる。
元老院と協調し行政の整備、貧民対策に努力した。
そして皇帝の座を養子のマルクス・アウレリウス(アントニウス)に譲った。
彼は哲学に興味があり(スコラ哲学派)哲学皇帝といわれた。 晩年、ゲルマン人侵入がおこり、177年にキリスト教を迫害している


軍人皇帝時代


222年、アレクサンドル・ゼウェルスが皇帝になるが、軍隊が不満を持ち彼を暗殺する。
これ以後ローマ帝国は、皇帝をたてたり廃したりする、軍人皇帝時代に突入する。
そして、ディオクレスヤヌスが軍人皇帝時代を終わらせ、ペルシアに習い専制君主政を始め、帝国を四分統治を始めるが……。 正帝は20年経ったら引退し、副帝に帝位を譲ることになっている。
しかし、ディオクレティアヌスがマクスミリアヌスと共に引退すると、副帝が、正帝となるが翌年、西正帝、コンスタンティウス一世が崩御すると、自ら皇帝を名乗る者がでてきた。
そのため混乱状態となるが、コンスタンティヌスとリキニウスが、国をおさめる。
313年、二人で、ミラノ勅命をだしてキリスト教を公認する。が、しかし、324年コンスタンティヌスとリキニウスが、対立し、リキニウスを破り、コンスタンティヌスが単独皇帝になる。
330年都をローマから、ビザンティウムへ移しコンスタンティノーブルと改める。コンスタンティヌスが死んだあと、三人の息子が争い再び混乱状態となるが、コンスタンティウス二世が単独皇帝になり数十年後、テオドシウスがキシスト教を国教と定め、死に際して帝国を東西に分け息子達に与え、東を長男に、西ローマを次男に与えるが、西ローマはすぐに滅んでしまう