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オスマントルコの歴史はや覚え

オスマン・トルコ帝国はアナトリアとバルカンをまたがる世界帝国で1299年から1922年までやく700年間つづいた。
13世紀前半、トルコ系オグズ(に属するカウイ)族がモンゴルの圧迫により中央アジアの草原よりアナトリアに移住。(族長、シュレイマン・シャーが民族を連れ移住したのが、シュレイマン・シャーは伝説の人物らしい)そのころ、ルーム・セルジューク朝のスルタン、カイグバード1世はモンゴルと対戦中であった。族長エルトゥルル・ベイの子オスマンのときルーム・セルジューク朝のスルタンに加勢し西部のアナトリアのソユートを都市を封土としてあたえられエルトゥルル・ベイの子オスマンがルームより独立して新国家を称す。
1299年オスマンが初代スルタンとなる。建国伝説でオスマンがソユートの隣に住んでいたエデバリの娘に何度もプロポーズを申し込んで、あるひ長老の家に泊まった時月の夢をみたと、族長に話すと「君は将来王になるだろう」と認められ娘と結婚できたと言う話がある。(しかしこれは嘘らしい)オスマンは城主の娘を息子オルハンの妻にした。オスマンが死ぬ前にブルサを攻略し、即位、首都にした。

第二章・力を求め西へ

ムラト1世の時オスマン帝国の基礎ができる。
ムラトは勇敢なじんぶつであった。
1362年ごろイエニチェリ(近衛歩兵軍団)を創設した。イエニチェリは世界最強の軍隊で徹底的な軍事教育を行ってきた。ほとんどが顔の良い少年ばかりで白人が多く(奴隷でなる人もいる)、当時のイエニチェリは結婚してはいけなかった。そしてかれらは料理機具をいつももっている。
1389年、ムラトはゴッゾヴォの戦いでだましあいに死に、そして 次にハヤズィット1世がスルタンとなる。ニックネームは雷光王。
兄弟殺しの習慣をつくった。(王になる子供は一人でほかの子供はころされる)
しかし、1402年コンスタンティノーブル攻略を試みたが、アンカラの戦いでティム−ル(とても強い国でチンギスハーンの子孫を称してる)に敗北しハヤズィット1世は捕虜となり、オスマン帝国は一時的に解体する。11年間スルタンがいなく、兄弟内で血みどろの戦いがはじまり、そのころビザンティン帝国も混乱状況にある。その後兄との間で王位継承に勝利をおさめメフメット1世がスルタンとなり帝国を再興した。
7代スルタン、メフメット2世のニックネームは征服王で、兄弟殺しの慣行を法令化した。
コンスターンティノープル攻略すすめた。
だが反対するものもいた。
ビザンティン帝国との共存策を大宰相カリル・パシャが主張したのだ。だがメフメットはがんと揺るらなかった
。 ボスパラスの海峡のヨーロッパ岸に要塞を築き、コンスターンティノープルの地図をもとに琢一指示。
1453年4月5日コンスターンティノープルを包囲するが、(その時コンスターンティノープルは一市ぐらいの領土しかなかった)コンスターンティノープルは三重の城壁に守られている街で外壕の幅20メートル深さ10メートル、外壁の高さ8メートル幅2メートル、内城壁の高さ12メートル幅5メートルもあり、海側にも城壁がある堅城。
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第三章・世界へ

しかも海に向かってひらけた地形のために兵糧攻めが不可能。 そこでオスマン・トルコはイタリアに特別な大砲を頼んで造ってもらい、「オスマン艦隊の山越え」で攻略し、同年5月29日コンスターンティノープル落城。征服に関する記録は両者でことなっている。
首都をブルサからコンスターンティノープルに移しイスタンブールと改称し、モスクを中心とした街をつくりトプカプ宮殿を建設し、さらにヨーロッパへと進出する。


第4章・あたらなスルタン

9代セリム1世は残酷な人物だったが軍才はあった。
セリムは父を殺し、長男スレイマン以外の子供は自分の手で殺した。
メッカを支配しカリフの地位をかねる。
10代スレイマン1世は最盛期のスルタンでニックネームを立法者。または壮麗王。
46年の治世中13回にわたって遠征におもむく。
そして一度もまけたことはなかった。
1529年ウィーン包囲、神聖ローマ帝国カール五世と戦う。
1538年プレヴェサの海戦ではアンドレ・ドリア率いるカトリックの連合艦隊をやぶる。
地中海は、スレイマンの海となる。
1566年。ハンガリー遠征中に「勝利を伝える太鼓はまだか」と言い残し没した。
その後、後継者をめぐる宮廷陰謀で結果的にスルタン不適格なセリムが残った。

第五章・終焉そして…

スレイマン1世以降のスルタンは「魚は頭から腐る」という諺とおり、無能なスルタンが相次いであらわれた。 14代アフメット1世はは兄弟殺しをやめ監禁することにした。弟たちを小さい頃からカーフィスという鳥かごに、死ぬまで閉じ込められ、息子がいなく崩御したスルタンのかわりにスルタンになれるチャンスがある。
 アフメットは新しいブルーモスクを『ブルーモスク』を造る。(逸話あり)
19代イブラヒム1世は『オスマンのネロ』で狂気者。
2歳のときカーフィスにいれらてた。が、兄ムラトが死にイブラヒムがスルタンになったが、彼は狂気的な笑みをみせ呟いた「ざまあみろ、独裁者が死にやがった」。
その後208人のハレム(後宮)の女たちをモスクワ海に投げ込んだ。そのなかの一人は漁師にたすけられてことのありまさまをヨーロッパにつたえた。
 そんな彼の横暴ぶりをみて母親が息子を殺すことを決した。
イブラヒムは母によびだされたと知って従者の後をついてゆくがそこは昔いた闇の部屋だった。そして中にひかえていら死刑人をみて叫びあげた。「死にたくない!」と。
だが絞首刑にされた。 34代アブデュル・ミハット2世は露土戦争に破れバルガンの土を失う。1908年青年トルコ革命で立憲制となり退位。
37代メフメット6世は第一次世界大戦で連合国に降伏し、ケルマ・アタチュルクの革命樹立によりスルタン廃位。
1922年。700年続いた歴史に幕をひき、民族をつなぎ止めていた国が崩れ野望が氾濫し、現状にいたる。
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オスマントルコの歴史はや覚え終わり
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